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風が便る。

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  喜ぶ人を知っている。 沢山、色々あっても喜ぶ人の類。 あまり、酷いことばかりあると、確かに辛いけれど、 そこを、一時的にでも抜け出たとき、 あの景色が、風が吹いている。 多分、その人は、それを感じていたのだと思う。 そして、きっと、周りにときどき優しい人の助けがあったはずだ。 きれいな、きれいな、時を知っていて、 その時はそのことに感謝をして、 明日のために、眠っていたのだろう。 そういう知らせを、 私は生きているので、 ときどき、聞くことがある。 そういう知らせを、旅人のように生きて聞いていたい、と思うことがある。 今日は雨ですね。桜が満開になると、近くの桜並木があるので、写真を撮るのですが、ここ暫くの年々、おお、きたー、という喜びがあったのですが。今年は咲いてるねえ、くらいの心の動きで。大丈夫か、自分。あとで咲いていた喜びがあるはずのことを、後悔しないか、と、よく分からない焦りのような、気持ちが少しだけあります。写真を撮るのは楽しいのですが、そうですね、幸せそうというかそういう感じを横目で見るのは嬉しい気持ちになるか。今年は桜にフォーカス、というより老若男女が気持ち良さそうに歩いているのが、いいか。介護士のときだったと思うけれど、敷物を敷いて、そこでおばあさんと、ひょっとしたらひ孫さんかな、お弁当を食べていて。写真を撮っていたときに、気持ちいいですね、くらいのことを自分が言ったと思うのだけれど。ちょっと、戸惑ったあとにいい笑顔をくれたのだな。いい時だった。 今の生活は工夫しないといけない。ブログの特に写真を撮ることが楽しみだが、今現在、気持ちがしわがれている。何というか、やる気がない。気持ちが負に向かっているのでもなく、どうでもいいような気持ちでもない。しかし、やる気がない。これでは、いけない。 身体もたるたるで、変えないといけないことがあるな。気持ちが負の流れになるのはやはり、季節の変わり目か。今年はそれが止まらなくて薬でどうにかするという。しんどかった。 さて、そういうことで、ドライブして宇和島に行こう、と思う。一泊する。今、書きながら思いついた。スマホ、カメラ、かば~んに~つーめーこ~んで~。ラピュタの歌の感じで、どうか、歌って下さい。世界が歌えば世界が変わり、何かが変わる。変えて行こうぜ。

掃除、掃除、コーヒー、アイスクリーム。

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  良い知らせ、 良い話、 親切にしてくれた記憶。 思い出もそれも栄養。 部屋が汚れて、 ふてて寝る。 随分、寝て、 また、今日も生きている感じがする。 随分やる気がなくて、ふてて寝ていたら、起きて。やる気が出始めた。昨日、薬を飲み忘れている。しかし、やる気だ。掃除だ。ずっとしていない。生き物でいられるのはありがたい。ふて寝ができるのだ。ブログの詩はそのままのこと、だけど、美しい詩を書いてみたい、とも思うがそんなに簡単に美しいことを書けるものでもない。自分の気持ちを上げるためにも、と思うが。どうして、そういう焦りの気持ちのような事象が起きているか。上手く行っていないからだ。気持ちがくすぶっている。だから、美しい詩を書いて安心したいのか。満足したいのか。ブログの難度を上げることもない。殆どは自分のためにブログを書いている。写真も楽しい。 自分は自分だ。そんなにできる人間ではない。そのラインを越え過ぎないように。しかし、写真は楽しかったな、今日も。自分の持つ場所は文章と時どき思い付くアイデア、と思っている。文章も火がつかないけれど、またやる気になり始めているので、頑張ろう。いいことがあるといいな。本当に。自分も自分が見えている景色も。考えてみれば、その反対、とか嫌だよ。自分がどうするとかではなくて。あとは人にどう見える、とかいい人っぽくするのをやめたい、とは思うな。確かにしんどくなる。考えれば過去にもそこをつけこまれていたのだろう。ブログで書くことでもないけど。そういうところ、変わりたい。

良いことよ、あれ。自分もだが、皆さんもあった方が良いか。それぞれに、小さくとも大きくとも。

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  それなりに生きている、と気持ちで思って。 できることをして行こう、と思うようにして、 諦めることは諦めて。(自分の気持ちを越えているようなことは。) できることはしていかないとな、と思っている。 掴みどころがなく、そういう気持ちになっているが、 自分を生きている。 周りの不確かなようで、確かにしてくれる。 時どき置かれている気持ちを、 まだ大切にできる心が私にはある。 だから、気持ち良く信じて生きている。 今まで近く、丁寧に接して頂きありがとうございました。だな。かなり上から目線の、ありがとうございました、を伝えてしまった。 さて、まだまだ自分を生きている。これからも自分自身はそんなには変わらないだろう。結局、自分の領域は文章だが、それも今までののらが続いてそんな上手くいかん。そして、私はのらでいい。ただ、やる時は燃えて書こう。あの感じになるのは嫌いではない。文章に入って行く感じ。求めていたこと。与えられたのだ、と言われればちょっと悔しいけど、事実だ。でも、努力もしているんだよ。ブログの詩はぶつぶつと。 間違っていなければ、いつかに自分から申し出た方がいいだろうな。いつもの勘違いならもうそれでいいけど。自分の日々にも小さくとも大きくとも神様からの良い手紙が、便りが届くといいものだ。 そうだ。これから新しいことが始まる人たちは、その時間がとても楽しい、良いことのある時間になることを願っています。エンジョイ、よね。その先も良いことがあって、エンジョイ。

1枚目の写真、背後が墨で綺麗ではなく滲んだようなのを解消するには、どうしたらいいのだろう。撮る時に気をつけた方がいいのか。

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  何もしないより。 何かはしていて、準備をしていた方が、 そういう時って、そういうタイミングがある。 時が来る。 そういう話を聞いて、希望を感じる。 何かを求める若者をテレビで観て、 私も求めていた。 私が変わるきっかけ。 それは、はぐらかさないで、 自分を生きる。それを恐がらないことだった。 (多分、他にもいろいろある。ごまかしてばかりだと、自分の芽が出ている大切なところが伸びて行かない。これは、結構人によるかも。年齢で変わって行くことも多い。自分で勝負しないと太刀打ちできない、とか。) 今日は写真を撮りに外に出ると、小学生の女の子が挨拶をしてくれて、ときめいた1日になった。小説も進まず、ブログをするか、という、出かける前に少ない白飯のベーコンエッグ丼を食べるだけの、それだけの楽しみの1日が、うれしい♡ 1日に変わった。怪しいおじさんにはなりたくない、とやはり思っていて、カメラのレンズカバーは写真を撮り終わったら、必ず取り付けている。なので、ここ、という良い時の瞬間の写真は撮れない。幡野さんはレンズカバーはしない方が良い、と言っている。良い時の写真が撮れるから。私は今までに2度警察のお世話になっていて、1度目はゆっくりバイクで曲がって道路に出たら、そこにいた人が私がわざと変な運転を自分にした、と警察に通報をしたみたいで、まだ実家にいたときだけど、私服の警察の人が来て、今後、変な運転をしません、みたいなことを書かされた。ここは、少し組織が関わっていそうな気がしている。じゃらじゃら、アクセサリーを付けていたときで、格好も年のわりに変な格好だったから、変な格好すな、というメッセージかなー、と今は思い返している。2度目は夜によく写真を撮っていたときがあって、電灯の当たり具合とかそれで色が映えるとか、好きで撮っていたら、私服警察官の人が、ばっ、ってやってきて、職務質問されて、無職になっていたときだけど。カメラに映っていた写真を見せて、変な写真は映っていなくて、自分にとっても危ないから夜は写真を撮らない方がいい、と言われてから、夜には写真を撮らなくなった。時どきやってしまうけど、住宅街も気をつけた方がいいだろうな、と思っている。無邪気に写真は撮れなくなっている。 なので、小学生の女の子が挨拶をしてくれて、嬉しかった、とか書かない方がいいのだが、私の性格上書くのだ。 昨日はハ

台所を片付けないといけない。皿洗いも。

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  つくしが取れた。卵2個分の卵とじくらいにはできそうだ。おばあさんはちょっと、もう遅い、と言っていた。(つくしを採る時期としては。)袋を見たら結構採っていたな。他にも場所を知っているのかもな。私は今日のお夜食くらいで良いか。昨日作らなかった、菜の花とエビと豚肉とか椎茸とか入った餃子を作らなかったので今日作らないといけない。実家で貰ってきた、のらぼうはお好み焼きにするつもりだったけど、餃子のことを忘れていたので、明日にお好み焼きに使うようにキッチンペーパーに水を含ませて、切り口を包んでおく。土井善晴さんが餃子は何でも包めばいいんだ、と言っていて。最初、料理の素人のときに、そうなんだー、と思っていた。結局、今日作る餃子はもとになるレシピはあるのだけど。料理の本、結構買ってあるので、今は買わずとも、そのレシピたちを試して行って、美味しかったものをリピートするようにしようと、思っている。そして、私は未だにレシピの通りに殆どを作る。ほぼ、間違いがないのだな、その方が。アプリでは感性と言うか、その感じを掴もうみたいなことも、言っている。塩の加減とか、何となくだけど、これは入れ過ぎた、とか失敗で感じが少し掴めかけている気もする。 今日は聖日の礼拝。大学生になる子二人、高校生になる子一人。空気が良かった、という印象。良い気持ちの風が吹いていたような気がしている。私がものすごい金持ちだったら、結構なプレゼントをうはは、と言いながら買う妄想をしているが、でも、そういうことって、そんなに良いことではないよね、と思うかな。気持が嬉しい、そういうことを大切にするというか。そういうことが気持ちがいいのだろうな。私はすすー、と帰る感じなのだけど、今日は何か皆さん、嬉しい、というかそういう印象を何となく受けた。そうだよな、新しい牧師さんが決まって、もうすぐ着任するのだからな。春らしく色々なことが始まるのだ。 自分を時どき、感じて落ち込むこともあったけれど、世の中広いんだよなって、思うようになったな。 everything will be alright すべてうまくいく。 きっと、大丈夫だと思うんだよな。

ワンニャン、ニンゲンニンゲン。

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  壁に貼ってあるスリーセブンのレシートの印刷が消えている。 ユー、アー、ラッキー(ワン) エンド、ラッキー(キャッツ) アンド、ヒューマンビーイング(プリーズ)ラッキーシング、カム。 運動して、美味しいご飯食べて、やせて、やせて、 音楽を聴いて、うきうきしたいぜ土曜日。 YouTubeで宇多田ヒカルさんの音楽アルバムを聴きながら、現像してブログを書きながら、のっている。おれは、するんだぜ、の、~だぜとかは、宇多田さんのパクリから始めました。ごめんなさい、宇多田さん。いいな、と思ったこと結構パクるんです私は。あとは藤子不二雄のズコ、っていうの、男の子が言っていて、私も時どき使うようになった。ブログでは使っていないけど。あとは自宅で時どき使うのが、パタリロのぱぱんが、ぱん、だ~れがこ~ろしたくくろびん、をあのアニメの動きをしながら、暮らしているな。ちょっと、迷ったときとかに使うかな。 今日はお昼にセブンイレブンの小さい入れ物の鯛茶漬けを食べた。美味しかったなー、セブンイレブンすごいなー。 電子レンジで温めたのだけど、電子レンジで温めることでたんぱく質の成分が自然にはない物になる、という話があって、さらに、そういうことが解消された電子レンジできないかな、と思う。かなり、難しそうだけど。 今日の夕飯は何にするかな、痩せるを意識する食事か、美味しいを優先した食事か。カレー作っちゃおうかな。いや、野菜を中心にした食事にしよう。腹まわりの肉すごいことになっている。

今日もコロッケ明日もコロッケ。

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  嬉しく春を纏って(まとって)。 風を迎える。 花たちの、 いくつかは、 そう思っている。と想像している。 花たちのお出かけの季節です。 (岩合光昭さんの猫のコメントにちょっと、感じが似ていると気付いた) 昨日は辻仁成さんの白ワインを使ったコロッケのレシピで夕食を過ごした。決定的なミスをしたのは、玉ねぎを入れるのを忘れたことだ。作り方をざっと見て、うんうん、こういう感じ、と思っていてしっかり確認をしなかったのが、玉ねぎを入れ忘れるというミスを誘った。でも、十分美味しかった。やっぱり、自分で素材から組み合わせて行って、作ると美味しいね。今日も、作り置いたコロッケのネタの残りがあるので食する。野菜をスーパーで買おう。冷蔵庫に野菜がない。 ちょっと、調子を崩したときにお腹の肌を触ると、がざがざになっていて、今大分調子を取り戻した状態になると、酷くはがざがざではない。精神的な物にも結構、肌の調子は私に関しては影響を受けているのだな、とぼんやりと思っている。確信的な気持ちではないが、多分そうなんだなーという感じ。本当は神経質なところがあるし、心が少し弱いのもあるかな。そういうのが、肌の調子と結びついている。 贅沢な気持ちで行くと、神戸に美術館を見に行きたいなー、とちらっと思っているのだが、そういうことは贅沢が過ぎる、といい子ちゃんのつもりでなくとも、思っていて。でも、行けないのをいつか行ってみるか、と思えているのは自分なりに幸せである。こういう感じが今は幸せだな、と思っていて、多分自分はもの凄い金持ちだったとしたら、普通に育てられていて、良かったなあー、と思うのだ。日々の小さな神様からの良い知らせ、幸せを受け取ることのできる、生活。人から見られる目を気にせずいられたことも。知っていたら、傷付いていたと思うぞ。あほみたいでいることができた。普通くらいのお金持ちだったら、結構それなりにしても良かったかもだが、あほみたいな金持ちだとしたら、生活の幸せを知っておいた方が良いなーと。責任とかありそうだし。そして、その幸せを、恵みと言って良くて。そういうことを感じることができる、暮らしがあること。もちろん、オープンキッチンとか、いいなーとか思うこともあるのだが。ここでいる幸せを今は味わっている。 小説はうーん、ゆっくり、そして、ブログに逃げる。アイデアが出てこないかな。ちょっと進みだし

春が始まるぜ。

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  春を見つけた。 春の知らせを受け取った。 嬉しい便り、嬉しい手紙。 夜は布団から肩を出しても、眠れるくらい。 何て穏やかな気持ちだろう。 穏やかな日常は、何て幸せなのだろうか。 こんな気持ちになれるのなら、 やはり平和を望む者となる。 穏やかですけれど、ちょっとテンションが高めかもしれないです。この後、暫くしてちょっとがくっと来て、持ち直して暮らして行くことになるのだと思いますね。穏やかさを感じるのは、無職も悪くないです。通常なら、罪悪感があってバイトくらいはしていると思いますけど。今日はお酒を飲んでもいい日です。昔みたいにしこたま飲むことはなくなったですねー。労働のあとに料理を作りながら飲み、食事をしながら飲み、その後にネットとか観ながら飲み。薬がお酒と併用してはいけない薬なのに、十何年か以上それを続けていたので、どこかに悪い何かができていないか、と思うこともあります。お酒を以前よりは控えている今は、やはり身体が楽な気がします。週に2回飲んでいい、と決めていたのですが。時どき、缶ビール1本とか、飲んで良くない日に飲んじゃっていたりも。小説はのろのろ。なかなか、火がつかない。アイデアもグッドアイデアが出てこないな。釣りに行きたくなってきている。行けば良い。今、机の斜め上を見ると、銀と金の十字架のネックレスが吊るしてあるのだけど、幾つかある銀のネックレスはチェーンとトップがかなりくすんでいるのだけど、1つだけある、昔母親に買った金の十字架のネックレスは輝きを失わない。何時かに、何で昔から金は世界で価値があるものとされているのだろう、と父親に聞いてみたのだけど、父親としての答えは、柔らかく加工しやすいし、錆びない、と言っていて。十字架のネックレスを見ると、本当だな、と思う。今でも、銀のチェーンじゃなくて、鹿革とかの紐なら白い石のトップ、ホワイトバッファローというのだけど、身に付けてみたい、と思うこともある。お出掛けの時とかに。さて、今日は夕飯に何を作るか。飲んでいい日は、結構出来合いの物を買ってしまうことが多いが、今日は作る気がある。

希望を持って。

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  状況を変えるには時間が必要だろう。 自分が変われば世界は変わる。多分、本当にそうなのだろう。 大きなことをなし得なくても、世界は変わる。 自分が生きられる世界に変わるのだろう。 自分が変わるには一体どうしたら良いのか。 経験、とか。 昔、思っていたのは人を変えてきた有名な本に書いてあることを、 実際に実践すれば多分、凄いことができる。そう、思っていた。 そうすると、時間が欲しい。しかし、人に出会いながら、経験して。 私はクリスチャンなので祈り求めて行く、ということになる。 また、えらそうです。しかし、ある程度昔からある本で人を変えてきた本、はそれだけの何かがあると思っていましたし、思っています。本って色々な本を読んで、自分のざるに残ったことが身に付いて行く、若しくは無意識に残って行く、と思っているのですが。その本で書いてあることで、重要なことって、贅肉を省くと結構少なかったりするのかな、と思ってもいます。それを説明するのにそれだけの分量がいるのもよく分かる。クリスチャンでない人で自分を変えるとしたら、本を読むのは凄く良いことだと思いますし、そのうち人を変えてきた本をお守りみたいにして、持っていて何度も読んで実践するのがいいのかな。自分は一時期そういう本を買っていたのですが、ある時、突然その本が無くなって、それからそのままです。確かにその本に書いてあることを、続けるにはかなり体力、気力が必要で。今の状況だと、それをしなくていい環境が十分にある。無理はしなくていいのか。物書き、という立場で緩やかに時間が過ぎて行っている。なので、今の自分で自分を変えて行くのは、継続、ということになる。それがどうにも難しい。それには、励ましが必要で、私はちゃんとした人たちのネットを観てよし、やろうか、と鼓舞している。プラス方面の情報を観るのだ。まだ、様々に自分を変える初心者の人はその隔たりがあまりに大きく、落ち込むかもしれないが、それを引き上げてくれる人の本やネットを見つけておく、ということになるのか。それを考えると、前教会での励ましは自分にとってどれだけの物になっただろう、と思う。毎週前向きな励ましが貰えたのだ。自分が持てる場所で、置かれた場所で前向きにその仕事をすることができていた。希望を持って。時が変わって行く。大きな力が働いて、変わって行く。それでも、これからでも良い生き方がし

焼いて焼き肉。焼いて焼き野菜。

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  今夜は焼き肉だよ、と言う。 何で? て聞かれたら。聞く人は別にいないけれど。 楽だからだよ。と言うつもりだ。だって、楽だから。 お肉を買って、目の前で焼くだけ。野菜も買って切るくらいはするけれど、 野菜も目の前で焼くだけだ。焼き肉のたれを買っていて、それにつけて食べるだけなんだ。 白いご飯は、って聞かれたら、もう冷凍をしていたおにぎりを解凍して温めて、食べている、と。また、答えるんだ。 とても幸せに、テレビを観ながら忙しく、そういうことを焼いて食べるのだ。 キューライスさんの、よるのえ、を意識して自分としてはの書き方で紙には書かず、パソコンから直で叩いて書いてみました。かわいいね、よるのえ。写真集と同じで、ほっとしたときに読むのがいい。机周りが汚かったり、部屋自体が汚いとほっと、幸せには読めないな。どうしても、のらが始まって部屋が汚い。でも、こういう復活しだして、部屋の掃除をしたりの繰り返しが全体を通してなら好きだ。ずーんと沈んで、部屋が汚い時は、ずーん、と暗い気持ちになるけど。生活、好きだな。あとは、ペース配分と言うか1日の日課を〇書いて、決めておくかなあ~。できるかな~。眠れない日があると、一気に計画が崩れる。眠るのはよく眠るのだけど。でも、危ないもの持っているので、睡眠は大切にしておこう。

足元から。

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  色々あるのだが、自分の発言で響いたのが、自分で人生を変える、なのだ。自分の人生をそれなりにやられっぱなしの人生を変える。自分にとって、それは書くことということになる。それがまず、一番最初の希望。それで、稼いで自分が思っていたことをする、というのが当初の目的だった。金を稼ぎたい、という。アイデアとかも特許とか取れたりしたら。とにかく金を稼ぎ、自分のしたいことが十分にできる。苦節(苦しみに負けず守り通す心、という意味らしい。)してきて、まだ残っている心だ。こういうことを書くと何を生意気にと思う人もいる。しかし、ここまで来た。組織の助けもあったかもしれないが、私は自分の人生を歩んでいる。でも、楽しているな、と思えば、かなり楽をしている。ブログを書くのも自分のためが殆どだし、世界と繋がろうとして、日常を何とか苦しいとか寂しいの種が出ないようにしている。修行か、と言えば、全然修行じゃない。のらりくらり。 じゃあ、何なんだ、というなら。啓蟄という言葉を最近知ったが、もごもご、地中の中でしていたのだ。今がタイミングか知らんが、自分で書いた、自分で自分の人生を変える。例え地中の中から出られなくても、変えることはできる。多分、小説も収入は得られないだろう。しかし、変える。創作する。運動は、合気道を本気でやろう。変える。実行するのだ。英語は、チャンスがあれば、友達を作ろう。変える。ギターは、新しい風を入れよう。車の中で詩を読んで歌おうじゃないか。まじ、やる。山奥でとか。変える。他、何があるか。変えるのだ、人生を。人生の流れを変えるのだ。自分で自分の流れを変える。霊性、霊的な性質。祈りによって、強めたい。なかなかできていないが、自分が言うことで強めたい。弱さを憶える自分だからこそ。そして、時々聞こう。自分の霊的な性質に。どんな感じ? と。 生きている喜びを知るのだ。それは希望についても同じ。 自分のできることをして行く。小さくとも。喜ぶのだ、今の現状を。改善できることは結構あるはずだ。この感じを日常生活にも反映できますように。

ポジティブシンキング

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  日々暮らして、 やはり、生きる。 ぼんやりした性質はそんなには変わらず。 色々なことを心に留めることができたのは幸いだ。 たぶん、この性格もあって、生き延びていることもある。 すうっと風が吹いて、しとしと雨が、降って。 そんなときも、詩を書きたい。 それは、そういうことは、何という恵みなのだろうか。 (やはり心を鎮めるために、ブログでの詩は書いている。挑戦の気持ちのときは公募ガイドの短編や詩について、見つけたら応募していて。暫くそれが通らないことを知って、諦めていた。KDP について希望を持ち始めていたが、小説をここのところ、ちゃんと書いていなかったので、攻めあぐねている。そろそろ、取り組まないと。自分が進化したような気になっていたが、間抜けなところは間抜けだぞ、と思う。とろいから、後から気付いたり。生きて歩むと思って、足元のことを対処して行こう。それと、書くこともだが、かっこいいつもりでなく、挑戦する気持ちを持っていたい。凄い挑戦でなくとも。小さな自分の挑戦。時間あるし。やるかどうか、分からないが、書いてしまうと書くの勇気いるが、合気道を今からの年からでもやってみたい。たるたるの身体ではあるが。やってみたい。左膝が悪いけど、できそうならやりたい。ぬちぬちと自分を卑下したりするような生活に風を送りたい。やって悪いことなぞ、ないだろう。まだまだ人生変えて行くぜ、と思っているんだぜ。色々あっても、ポジティブシンキングを与えて欲しいぜ、神様。頑張って努力もするぜ。)

人間失格はしていない。いつか亡くなるときに人間合格になりたい。

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  自分のこと。聖書教育の予習をしていて、最後の晩餐からユダの裏切りの話だったのだが。ふんふん。ユダがどういう気持ちだったかは実際のところ分からないのだが。イエス様が最後の晩餐でユダへ裏切りの指摘をするところ。私の若かりし頃。図太いところもあったが、なかなか、センシティブで大人はそういうの見抜く人もいる経験だけど。こういう指摘があったとき、自分はそういう頃の自分は、ごめんなさい、なのだよな。恩師に会ったときに、自分の失敗を話したとき、良い子だったんだよ、と言われた。悪いことを気持ちの上ではしたくない、というか見抜かれたくない、という気持ち。人間失格の話になりそうだけど。悪い部分も感じているけれど、それを見抜かれたくない。そういう良い子センシティブ。そして、実際悪いことを失敗をしてしまった。今もその流れにあるけれど、しかし、そういうことって、あるよね。という。人間は失敗する生き物で、良くなるためにわざわざ失敗は必要がないけれど、生きていれば失敗はあるだろうし。自分はなかなか、時たま耳にする大きな失敗をしているが。へらへらして、本当の自分を見抜かれたくない、も今からの視点で見るとあるのかなー。まさに太宰治の話になるではないか。嫌だな。どうなんだろうな、いや、色々あって、誠実になれたのだよな。まだ、せこいけど。色々あったからこそ、失敗のようになってはいけない、と思ったのかなー。だから、誠実に生きないと、と思ったのかな。そういう風に生きていたのかな。人がいい、はもとからでもあるし。でも、ときどき思うのだけど、狂気的もあるかもだが、センシティブでなければ、それはできないだろうな、というのを感じることがある。それだけの物を作り上げるのに、センシティブな感受性を持ち合わせずにそれはできないだろうな、と思う。だから、私も柔軟になるようにして、レジリエンス、少しはそういうのを鍛えられて、感受性を大切にして。この身に余る事柄を感謝して、肩の力も抜いて。ときどき、感じる「その時」を受け取って。ありがたく、生きたいものだ。ブログを始めたとき、嫌なことをあまり書かなかったのは、前教会にいたおかげだ。心の状態も良くなっていた。何か意図的に思って、書くのではなく本当にそれが事実だと思う。そこを後にしてから、色々なことを知り、また目線も変わった。昔、よく決めたことを流されてやめて、へらへらしていた

月夜にひろった氷、より。

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  「私のすきな人」 あなたはちょっと「砂場的」ですね あなた、今、これを読んでくださっているあなたのことです あなたにお目にかかれてケンキョな感謝の気持ちです 夏の日のひまわりや麦畑を好きなわたしが 心から認めているあなた それはこの世のどんなことより重大なことです 認める、ということは。 わたしは本当に、砂場的なあなたが好きで好きでたまりません こんなふうに人間に生まれてきたことがくやしいほどです わたしやあなたが、こうじゃなかったら わたしはすぐにあなたのところへ飛んでいって もう、ふたりで、あの青いところへ(そうでなければ、違うところでもいいのですが)行ってしまうのに そうして、何でも、できるのに。 やがてくる 悲しみの徒競走 玉入れ 玉わり リレーなど バトンタッチの胸苦し (リレーにえらばれたらどうしよう) 銀色夏生 「それが涙だと言うのなら」 それが涙だと言うのなら なぜ君はそれを大事にする それが悲しみだと言うのなら なぜ両手を離してしまわないんだ かたくかたくにぎりしめて ずっとずっと守っているのは それが必要だからだろう 君は後ろをふり返り 君はまわりをみわたして ある考えにぴったりくると 知っていたものと油断する 油断してまた歩きはじめる 君は涙をおまじないのように持っていて 幸福のゆくえを 決めさせる それが涙だと言うのなら 銀色夏生

生活ができる人でいたい。よくさぼる。

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  適当にお金があって、 怠惰に暮らして、仕事もしたくなかった。 若い頃は。 考えれば今がそうだ。 獣医になってみたいと思うことがあった。 動物は好きだし、しかし、本当の理由は人の関係が窮屈に感じることがあったからだ。 こころが変化して。今もそういう風かもしれない。 少し目を覚ましたい。 自分が特別な自然的感覚を持っていて、そういう気になり始めて。 それは間違いが起きて、本当に傷付いたときに気付くだろう。 よく見て、考えて、知って、感じるのだ。 私は生きていて、過去があり、学び。 未来を祈って、歩む、どちらかというと弱い一人の人なのだ。

今からのことを、歩いて、良い味わいを感じて。そして、やはり生きること。だから、味わえる。

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  日々暮らして、コーヒーを飲んで。 カメラを持って歩いて、最近知り合った猫に触れる。 忘れて行っていること。 忘れないようにしていること。 それを失ったら、まず、 つまらない人生になるだろう。 簡単に寝込むのは、予防しているからだ。 無理をすればできる。 綺麗な顔をした兵士だ。 私はそういう風にはなれなかった、と思っている。 平和的解決が今からでもあるように祈ります。

日々あれば、幸せは足るにあるから。自然に時々それを見て、幸せにやはりなる。

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  コーヒー豆を挽いて、お湯を沸かしてそれに注ぐ。 液体となってコーヒーができて、口にする。 薬を飲み、よく眠って、起きている。 詩を書いて心のぶれを落ち着けて。 穏やかな日々を見ている。 笑っているその笑顔はとても楽しそうで。 優しさがその理由にあるのだと。 日々を暮らして。 風を受け、 抱きしめるべき人が、抱きしめて。 だから、とても楽しいのだと、 健やかな顔のその日常を想像している。 (久しぶりに人が多くいる場所に行くと、頭がしんどくなっていた。随分とやわになったものだな、と思うな。さて、どう生きていくか。日々を信頼できる存在に知恵や力を求めて、自然にそれがあって。そして、やはり生きていく。生きているから、自分の目線で。よく見る。そして、考えたら、少しでいいから、祈ろう。そういう習慣が自分に身に付いたら、書いている今はそれがいい、ととても思っている。20代の頃は子供のことは、好きだとか、そういうことは分からなかったけれど、自分の手のかさぶたを純粋に心配してくれる男の子がいて、その純粋さが新鮮に心に残ったことがある。子供がんばれ、若者頑張れ、大人もがんばりましょう。)