投稿

8月, 2021の投稿を表示しています

「取材・執筆・推敲」

イメージ
  朝起きてApe で作業することが多くなっている。過去に読んでいた本を実家から持ち出して、読んだり、メモしたり。読みかけの本をまた読んで、メモしたり。気になったことをメモをしたことを、他者に観られない形でブログにしておきたい、と思うが今のところ、流出するのか。そろそろ、やめにしてくれないか。 あとは、若松英輔さんが言っていたこと、同じようなことを古賀史健さんが本に書いていたことを、またブログにして自分だけのために観ることができるようにしたいが、暫くできないか、と思ったが、するかもな。一応、自分だけが観られる設定にして。 自分のやり方をネットでは公に発表しようとは思わないな。自分なりにやってきたことだから。それなりの思いがある。 というところで、古賀史健さんの「取材・執筆・推敲」について、小説を書く、という観点から簡単に思ったこと。ライターのための本なのだけどね。 古賀さんも若松英輔さんも言っていたことは、かなり有効だと思っている。そうして、その言葉が自分の身体を作って行く。 感情の翻訳、はいいな、したいな、と思う。人に見られる形ではなくでも、ブログにしてスマホで寝転んで気軽に観れるようにしてみたい。まずはノートにその思いが溢れたときに、書きつけて。遠出のウオーキングのときとかに。そういうことに慣れてみたい。 起承転結のほんとに分かりやすい、4コマは、起承転結のことが実はあいまいだった、自分に結構なイメージとしてそれを与えてくれた。ああいうのが、少なくとも自分には形作る基本になることがよくある。そこから、色々同期して行って膨らみが出てくるのだ。私は、基本がシンプルなのだ。でも、妄想で感じることは他の動画で観る人も、基本の考え方がシンプルだったりするような気がするのだが、勝手な感じ方で。人によるだろうけど。 話としては起転承結へ続く、流れの章のページだけど。自分にはまる基本。 そして、シークエンスのところだな。私は短い小説なら少し書くことに慣れている。ずっと書いていないから、今どうなんだろ、とは思うのだが。それと、プロットほどのプロットは書かないが、流れを書くよな。それぞれのカット、若しくはシーンとして。そこを、シークエンスで書いてみる、ということ。本では絵本の桃太郎の話なので、シンプルになっている。しかし、小説もこれくらいでもいい。そこから、考え、創造力を孕ませてい

和風カレーライス

イメージ
八月三十日、 からりとした印象の夏後半。 日差しは強く、それでも部屋にいると、 風が入り、物思いにもふける。 一般にそういう物思いは秋に多いという、とまた思う。 道通りの桜の葉を見上げると、黄色く一部枯れている。 夏の暑さを避けていたから、そのつらいことを知らないが、 暑かっただろう。 私は扇風機にあたって詩を書く。 物思いに少しばかり、ふけっている。 海の水に足を浸そうかと思っている。 随分、平和な詩を書いている。しかし、現時点時間を見ると、もう午後5時28分だ。時間が経つのは早い。今日は活動をそれなりにしている。天気が良いとやはり、洗濯物が乾くのでありがたい。余裕のある生活は本当に楽だ。精神的にがくっと来ることも、近日では少ない。また、そのうち来るだろうけど。病的な方ではなくて、単にがくっとくるやつ。病的な方は自覚しているが、その状態になっているときは気付かない。でも、世間的なやつでかなり、いろんなことを思ったし、その先の明るいところを何となく感じて、どこかに明かりがあることを感覚として信じ始めている。人間的な灯りがあるところ。暗いところもあれば、明るいところもある。 今日の車椅子バスケは楽しかった。スペイン戦は観ていなかったけれど、カナダ戦のときにシュートが入りづらかった香西選手が3ポイントシュートをばしっと決めて、2回決めて、気付いたのが観ていても3ポイントシュートは気持ちがいいということ。そして、チーム自体に個々の能力が働いていたこと。少なくともそれに私が気付いたこと。カナダ戦では鳥海選手の運動能力に目が行っていたけれど、それぞれの特性に私も少しは気付いたな。 鳥海選手昔テレビで観たあの男の子だよな。凄い前向きで感動したあの。香西選手も出ていた。憶えている。私は時間があるから、車椅子バスケ追っていきたいと思っている。正直、カナダ戦より面白かった。 今日の夕食はキューライスさんのひとり事から、和風カレーライス、だな。昆布とカツオの出汁は使うことがあるけれど、ここでのポイントはラードを使うところだな。昆布は水に浸けてある。

晴れている。

イメージ
  波立てぬ、静けさの朝 朝の風 涼しく吹く扇風機の風 コップ一杯の水 つくつくぼうしの声 秋もまた、どこからか声はして 暑く昼間の公園に 子供のいぬ明るさ。 こうやって、時は経って わたしもそこに流るとして 年をとって 何か思って生きて、 この命を味がして 一時、幸せを幸せと感じて。 昼間は暑くて外に出ている人がほとんどいませんでした。私は自然なやる気が出ています。地味に。ご飯食べた後すぐに皿洗いをしたり。思うのだけど、カレーは好きだけれど結構台所がいろいろ汚れるかなと。要するにカレー粉を溢したりしているのかな。最近、朝をちゃんと起きていて、今日は冷蔵庫にある残り物とかを朝食にしっかり食べてしまったので、昼は冷麺食べたし、夜は少なくだな。夕食は、姉に貰った冷製のじゃがいものスープの残りと、ご飯と納豆ねぎ卵を混ぜたやつと、オクラを茹でてマヨネーズと食べるのだな。ご飯は白飯と玄米を半々にしているか、白飯ともち麦を半々にして炊いている。 夏は畳の部屋に薄い敷くニトリの何て言うのかを敷いて寝ていて、寝る部屋は掃除をして枕元に家にあったバイロンの詩集と14歳からの哲学を置いて本当に少しずつ読んでいる。14歳からの哲学は読んだことはあるが、いつかの前に100分で名著だったか番組でやっていて、もう一度読もうと思っていた。バイロン詩集は古い本なので、訳し方が味があるのだな。詩自身もそういうことなのだろうが。 今回の詩、わずかにだけ文語っぽくやってみようと思ったが、よく知らないのに、そりゃできないな。文語の分かりやすい使い方とか、古い本の言葉使いけっこう好きだ。 ずっと、缶コーヒーを買うか、インスタントコーヒーをお湯で溶かして氷に入れて飲んでいたので、そろそろコーヒー豆を買おうかな、と思うな。夏の間の冷えたコーヒーを美味しいコーヒーで飲んでやろうかと。Ape でもがっつり飲んでいるのだが。 何日かの前に太陽市で買った黄色い花が枯れてしまっている。黄色い花、かわいいなあ、と思っていた。掃除もちゃんとしているから、近くの花屋さんでまた、切り花を買おう。

良い感じ。

イメージ
  力を抜いて、思いわずらいの気を抜くようにして。 猫背だから、腹に脂肪が溜まりやすいのだと、 背に緊張をもたらすのだが、気がほぐれて、 いつもすぐに前にのめり、顔も斜め下に。 適当というと確かに適当に 詩を書いていて、書くことがおおくて。 今日詩を書く人の その世界を知ると、 いつからか、わたしも、その世界に入って。 読むと自分のやることに恥じらいを感じたが、 その人の世界に入って行くと、私もまた、 世界に入ることをして。それをできて。 それは、静けさ、 それは、どこか寂しさで、 生きるという、やさしさのことを。 そういう風にこの時間が訪れたことに感謝をしている。 テレビで又吉直樹さんが出ていて、その話を聞いていると勝手にだが文学作品を読んでいるなーというのを本当に勝手に感じて。そういえば、ある時期から詩は見ることもあるが、文学作品を読んでいない、と思った。本も読んでいるがだいたい考えが書いている本とかで。今、ちゃんと読んでいるのは犬養道子さんの新約聖書物語とニーチェの本だ。ここに、遠藤周作を持ってこようと思う。若松英輔さんが書いていたこと、やってみようかな、とかなり本気で思っている。一番いいのはパソコンを使うとスマホでもよく見るので良いのだが、私のはどこまでか分かっていないが流出するので、ノートかなあと思うがパソコン使うかもな。 NHK出版の考える教室~大人のための哲学入門 若松英輔著にその提案が書いてあります。しかし、ちゃんと起きて生活をしていると気持ちがいい。

今日のこと。月曜日。

イメージ
  今日は起きるのが早くて、時間が沢山に感じる日だった。朝は釣りに行って、壁から海岸の浅い方を見ると、ちぬがいて車から降りてそれなりに歩くところだったので、太いラインでバイオワームを付けた竿の用意しかしていなく。投げてみるとぽちゃりと遠く目の方に投げたのだが、そっちにちぬが走ったときは面白かったが、食わなかった。上手い人だとこういうの逃さないのだろうな。ちぬは早朝海を見ているとこれまで、よく見かけている。浅いところにいるのを見る。竿なしのときが多いが。 昨夜寝て、4時に起きて薬を飲んでそのまま車に乗って釣りに出かけていたので、眠気が来てそのちぬの体験だけして、帰る。帰って1時間寝たらすっきりして、Ape で本を読む。愛媛もコロナに注意しなくてはいけないので、どうするかとそろそろ考えるべきだろうか。ワクチン早く打たなければ。 しかし、確かに優雅な生活を送っているが、そんな中、自分の血と肉とになることも、しておきたい。でもそれをがっつりやると、私はへなー、となってしなくなる。そういう耐久性の地盤があやしい。また、しなくなっていたギターと英語も始めている。ギターはプロじゃなくても、なんでミスしないんだろ、って思うけれど練習しているのだよな。時間があるのに30分の練習をしたりしなかったりだと、そんなものか。何処を弾いているか、ミスしないようにイメージしてはなるべく練習しているが。あこがれを忘れてはいかん。 昼はアプリの塩ジャージャー麺を作った。美味しかったな。生麵のうどんの選択も良かった。 午後は買い出しだな。久しぶりにドン・キホーテでトマトジュースを8本買った。トマトジュースも時々で、いいか。A-PRICE にピータンがあったのが嬉しかった。もちろん買った。太陽市でレモンを買って、明日にレモンシロップを作る予定だ。 夕食は昨日のモロヘイヤ餃子の残りとスープとご飯だ。お米も食べた方が他のものを食べ過ぎないかな、と思って最近は夜も食べるな。今日に関して言えば、そんなに動いていないのにやはり食べているなと思っている。お昼のうどんの量を半分にした方がいいかな。 武道館のジムはコロナのことで控えているな、Ape には行っているが。 自分は焦りやすい性格なので人と話すときは、落ち着いて話せるようにしたい。行けるときは、肝が据わっているときもあるのだが、焦るときはあるな。若かりしときは

なるようになるという時間。

イメージ
  実家のモロヘイヤを千切って持って帰るのだが、ちゃんとしたモロヘイヤがメインとなった料理に使わねば、という意識があって使うのに躊躇していたが。冷麺の麺を茹でる時にさっと入れて、茹でて冷麺の横に添えたり、めんつゆの味付けのスクランブルエッグに入れたりとか。ただごま油で炒めるとか、考えないで使って、十分おいしい満足感がある。スープや味噌汁に入れるだけとか。ただ、1回はモロヘイヤの餃子を作っておこう。クックパッドのレシピでは蒸す餃子だが、焼き餃子で美味しい。私は焼いた方が好きだな。 カメラはオートバランスをめい一杯左にしてみたら、昨日の写真だけど思ったより綺麗に写る。天候の具合とか色々あるのだろうけど。 話聞いてみようかな、と思っているが踏み込めない。1か月無料で期限前に解約すれば無料のままらしいのだが。幡野さんの写真の話が聞いてみたい。 カメラはじめます! という漫画で説明してくれる本が分かりやすくて、それから、ほぼAで撮っている。Sは使うことは殆どなく、漫画を読む前は動くものは連写で撮っていた。 色々機能があるが、殆ど使いこなせていなく、Fn キーは便利だな、とやっと思うようになってきたレベルだ。 今日の午前は小さな川の河口でお母さんと子どもが足を水に入れていて、気持ちよさそうだなー、というのを見て平和な時間を過ごしていた。 色々な思いが出てはくるのだけれど、本を読んだとおり、それって思うことで何か解決するの? と思うようにしている。かなり、平和な今があるわけだから。

涼しくなったら、歩いて美術館に行きたい。

イメージ
  ぐらっとしていたのが、なくなった。不安になりながら、不安も楽しんでいたが、ない方がいい。上の写真はこの場合もうちょっと猫さんがくっきりしていた方がいいのか。いつもじゃないけど、そういうことも思ったりしながら、絵とか写真を見るのが楽しい。考察が色々あったり、深みに入ると難しいが、最初の直感的なことが結構大切なこともあるだろう。プロの人の話はありがたい。田中泰延さんが確か美味しいラーメンを作る店は美味しいラーメンを食べている。まずいラーメン屋はまずいラーメンしか食べていない、と言っていた。以前、仕事で一緒だった人に言われたのは、美味しいお弁当を作る人は、美味しいものを食べている、と言われて。そうなんだよなー、と思っている。人と同じ様なことが嫌な人も、世界は広いから美味しいものが、様々にはあるからそういう方向で行けば良いのか。 パソコンに慣れていない人は手書きの方が、気持ちが入りやすくて、パソコンに慣れていればパソコンを打って気持ちが入ることができる、という話も田中泰延さんからの話だった筈だ。 茂木健一郎さんが言うクオリアのこと。憶えが正確ではないかも知れないが、絵や写真や文学などにおいて、多数の人が良いと感じるどこか共通の感覚。何か感じているその感覚。それを分析できる人もいるだろうか。 しかし、考えてみればすごいよな、今の自分の知識とか本も読むけどTwitterにあった記事とか、動画とか、もちろん出所は警戒とか確かめておいた方がいいけれど、それで積まれていったものも多いのだ。ネットでちゃんとしたところから、情報も得ることができる。 時々思うのは、色々な良い情報に触れて、同じことでも考察が違うが共通点があるとか、自分にとってはその同じ情報ならこっちの方がやりやすい、考えやすいとか、あるなあ、と思って。そういうのが編まれて行って自分のものになって行くのかなー、と思ったな。そういうことだろうな。

書くことがそんなにないのに、寂しさが(そんなに寂しくないけど)洗われるからブログを書くのかな。

イメージ
  綺麗な詩を書こうと思っていたけれど、そう上手くもいかない。ちゃくちゃくと「こと」を進める忍耐力もなさそうだ。何となく感じているのは、堕落すると最後の線がぴんぴん、と鳴ってまた始めよう、と知らせてくること。あとは人が頑張っていたり、こういう現実もあるけれど、と思いながら道を歩んでいるのを見ると、ああ、俺も頑張らにゃいかん、それなりでいいから、少しずつでもちゃんと生きるのだ、と思える。今、できることも少しずつやっていこうぞ。ブログの更新が多くなるのもやっていないことが、多いからだ。勇気を出して、踏み込むこともやってみたらいい。思うだけでなくて、怒られるようなこともあるかもだが、行動してみようぞ。自分。時間が兎に角あるぞ。やるのだぞ、自分。行動が少なくなってきているぞ自分。現実にあたるのだ。目が覚めることもあるだろうし。たまにならそれもいい。やろうぞ自分。

自分の心身を信頼する。

イメージ
  酷くはないが、世界がぐらっとまだ揺らぐ。何かしていたあとに、ぼっというか、集中していなくて気持ちが飛んでいるときになりやすい。意図的にも揺らぐことをすることができるときがある。癖になったらいけないので、しっかり気を張った方がいいが、敢えてそれを楽しむというか、自分の悪いところがある。そうなるとそうなってしまうことが多いのでやめた方がいいだろう。ここまで、にして。 昨日、読んだ本をもう一回途中まで、と書こうとしてまた揺らぐ感じがして、何なんだろうな。また、途中まで読んで今の生活ならできる、Beingについて、心身が本来持っている、自己調整能力を信頼してその働きの邪魔をしないで従っていくこと。あるだろうな、生活をするために、また生きていくために本能的に備わったものが。そこに信頼する、そこに働きを行ってもらう。 一般的に能力と言えば、何かを成し遂げるための能動的能力、いわば「ボジティブ・ケイバビリティ」ばかりが評価されます。そういう風潮の中では、「問題」を少しでも早く解決しようと焦ってドゥ―イング・モードを起動させることが当たり前になってしまいます。 しかし、それでは将来のことや過去のこと、つまり自分の頭の中で考えたことばかりに心が向いてしまい、今ここで実際に起きていることがほとんど体験できなくなってしまいます。そして、世界を直接的に体験して自分の人生を自由に生きるのではなく、頭の中に作った物語を繰り返し生きることになってしまいます。 目覚めるということは、そのような思考の世界からはっきり目覚めて、現実にしっかり足をつけて生きるということでもあるのですと。 妄想とかが多い、悪いことを繰り返し妄想をする自分。実際に本当に起きていることを感じ取れなくなることが多いのだろう。 まずの一歩は自分の心身を信頼して、ときに語りかける。静かにできることを、生活をしていくのだ。

ぼんぼんばら。

イメージ
  アイスコーヒーを飲んでいる。 哀しいことは、 哀しかったから、 哀しいのではないかと思っている。 時間は経っていて、 そうでないなら、そうでないことを思っていた方が良いだろう。 おもしろいこと? 楽しいこと? 今は何を思うことが多いだろう。 部屋がすぐ汚くなるから気をつけよう、とか。 今日は何を作ろう、とか。 もっと何か自分の身体に 溜めておけることをしよう、とか。 思うことだけの理想になっているけれど。 そうやって外でアイスコーヒーを飲んでいる。 思うようにはいかないものだ。 お盆に夢を見て憶えていることが多いのだけれど、 今年の夢は自分が解釈するに、楽しくて希望のあるものだった。 良くないことを妄想というか、考えていたらそういうものを引き寄せるだろうな、と最近思っていて。そういうことを考えていたな、と思うのだけれど、そういうことも経験することが多かったのは多かったのかと。自分の馬鹿さ加減がそういうことに繋がることも多いし。今はそういうことも少ないのだから、いいことを考えておきたい。生活も楽しんで。腹が出ているのみっともないから、何とかしたいけど、長期戦になりそうだ。

幸せなとき。

イメージ
  本当に時々、なのだけれど、 考えていることと、現実に戻ることとの間に、 ぐらっと、世界が揺らぐことがあって。 映画とかで観た、芸術的な人の症状のようで、 快感を得ている。 映画の評で、音楽だったか、絵画だったか、 才能を持っているが、統合失調症を患っている人と 主人公の関係を描いた映画のことを書いていて、 何という表題だったか忘れたが、 観てみたい、と思っていた。 芸術的なことは昔から、思春期からかな、憧れていたことで、 考えれば、問題を抱えていた人たちに憧れを持っていたような気がしている。 (今日はコメダ珈琲に行ったのだけど、隣の席のイケメンが、多分組織のイケメンなのだけど、店員の女の子とほんのちょっとのいい感じのやり取りがあって。隣の私は、ふん、イケメンが。という表面の気持ちが出てきました。私だけのことではなさそうだし、そういうものでもあるのだな、と思いましたね。才能もしかり。満たされたくて、落ち着きたくて暮らしたい、と思った。案外物足りなくなるかなあ、と思ったが、下痢をしてしまう飼い猫、みーが股の間で眠っていたあのとき、何も持っていなかったけれど、幸せだったと思っている。結局、今はあったほうがいいに決まっていると思っているが。)

ミニトマト

イメージ
  裸足で砂浜を掴む感覚を忘れていて、今年夏のうちにやってみようかと思って。 やってなかったことが沢山あって。忘れていることも沢山ある。 夏の暑いときに、冷房が効いた店でおでんを食べる。とか。その店ももうない。 近くにもおでんを食べることができる店があって、時々夕方そこを車で通ると、 子どもが外に出ていたりする。お父さんとかお母さんに一緒について来たのだろう。 しんどくなったら、旅に出るのだけれど、私はへい、彼女! も妻も子どももいないので大目に見て欲しい。 女性にはプライドとか、かちんとすることとか、そういうことに触れるので嫌われたり、痛い目にあったりする。分かっていない。 自分の思いのままに生きていると、一生まともな人とは分かり合えない。 エビフライの総菜を買った。オーブントースターで温めて食べるつもりで楽しみだ。 父親が取って行け、と言っていた冷蔵庫のミニトマトを取るのを忘れていた。夏はトマトが旨いのに。渡された大きいトマトは忘れずに取って帰っている。 私を憎む人間もいるだろうし、それは私には馴染みのことだが、主に自分が原因で。気もち良く、これからのことを考える子どもには。いいことがあったらいいのに、とおせっかいに思って、嫌われても、なんか盗んでほしいと妄想で思っている。 (ADHDぽい、と言われたことがあって、今日それを自分で感じたのですが、花が今年はつかん、と言っていたのを。頭の中でぐるっと巡って、去年はもっと暑かった、今年は去年より暑くないしそれが原因かも、と思って。去年、暑かったですよねえ、と言って、返事がなかったのですが。考えれば、そこに行き着いたそれまでの経緯を伝えていないのです。自分の頭の中では一連の流れがあるのですが、表の世界として、今年は花がつかない、に対し去年は暑かったです、と言うと、話し聞いとんか、となり、せめて、今年は去年より暑くないからかもしれないですねえ、とそれを言う根拠を表明しなければいけません。暑さの違いについて僅かにだけ触れてるにしろ、からかもくらいを入れないと、相手が予測できませんね。よくあるな、と思って。自分の中だけで解決しているので、表の世界で順序や経緯を言葉で説明できていないのです。相手がどう感じるかを、できるときもあるけれど、あせっているときは特に理解できるように順序だてて話せないのです。できるときは、びっくりするく

勇気

イメージ
  子どもがいる、と思っていて。 そうか、夏休みだ。 よく見かける、と思っていた。 と書き出して。 目の前に幼児用の椅子が使えるように 置いてあって。 Apeもちゃんとしているものだ、と。 気持ちは詩情というより、 ぶつぶつと思っていることを書いていて、 飄々とした気持ちでいる。 窓の外を見る癖はいつからついたか、 憶えていないが。 気を鎮めていて。 書いているときは、言葉にしたくて、 窓の外を見て、出てこないかと願っている。 そして、思うのだが、 夏のうちに、 冷やし中華を一食は食べておきたい、と。 生活をさぼっているのだ。 生活をさぼっている。料理をしていない。ちょこまかしたのは少しはしているが。 そうやっていると、また始めるか、と思う気持ちが出てきて、始められそうだ。冷やし中華食べていないなーと思って、料理をまた始めたら作って食べようと思っている。寒くなってくると食べる気しないし。ごまだれのも好きだが、酸味のある昔からの醤油だれでいいのかな、醤油だれが好きだ。 この年齢まで私がある程度私のままでいるのは、何がいけなかったかな、と思うのだが。いざというときの、私の気難しさ。そして、思い返すとかちん、とさせる人の感情を分かっていないこと。自分の思い通りになる、とまで思っていないが、自分からの目線でしか考えられていないこと。若い頃はエロさと馬鹿さ。何こいつ、と思われると分かっていなかった。 それを考えると、年なりにそれなりに人生経験を経たのだなと。大人になることも大切だし、今は落ち着いている生活だから言えるが、色々経験するのも悪いことではないか。しかし、いつまでもそんなのばかりだと、うんざりだ。私を憎んでいる人もいるだろうな。そういうのも昔からあったことだ。少しは私も変わったけれど、何でも変えようとは思わない。 と、書いていて、気付いたのだけれど、こういう大まかに言うと、文句のようなことを、書かない人は書かないなと思うのだ。私はどうしても吐き出したくて、書いてしまう。 ふーん。 夏のうちに綺麗な詩を書くと頭の中に思いがあるのだが、少し書いたと思っているが、うおおー、というのを書いてみたくて。そういうときの思いは、不思議なというか綺麗なというか自分とその周りの光景のときを経験したときが良くて、これは書かな、と思って書くときが当たりに遭遇するときで。経験したいものだ。ぶ

暮らしの私。

イメージ
  揺れることを、よく知っている。街路樹が。 どういう意思で、その風に 吹かれて、 生きることを、遂行しているのかと、 想像してみるのだが、別に、 ただ生きているだけ何だよ。 という私が思う結論に行き着いたので、 そうだね、と思って。 生き物が複雑に編み込まれて、ゆくほどに、 何か考えないと 生きていけないんだろうか、と思ったけれど、 そんなことでも、ねえんじゃねえか、とも思い。 シンプルだ、と言ってくれた人がいるのだけれど、 現実は複雑で。でも、本当は誰も言わないけれど、 シンプルなのかな、と思っている。 (挫折して、回復してきて復帰しようとし始めたころは、悪意が心を支配していましたね。人を騙したり、馬鹿にしたり、貶めていいんだと思い始めていました。バイトを工場でするようになっていたのですが。おばさんたちが、何というか普通の人たち。いい人たちだったんですね。あほなこと言ったりとか。あれ? これでいいんだ、と段々、思っていて。そして、違和感がなかった。ここで言う普通の人たち、というのはとてもいい意味で言っていて。普通に楽しい。こういう感じでいいんだ、と思っていました。最後の方は私がおかしくなってしまって、嫌な思いをさせたと思うけれど。あとは、文句になってしまうけれど、世界から現実に復帰して、専門学校に親の計らいで行かせてもらったのだけれど、スクールカーストとよく言うけれど、気持ちのいい子もいたけれど、若者独特のそういうのが強くて。そんなことどうでもいいから、穏やかに過させてくれ、と思っていましたね。私に余裕があれば、また違ったかもしれないが。介護士に働きながらなれるんだ、と知ったときは、そうしておけば良かったと何度も思った。今は時間が十分にあって、本を読むことも、いつでも読みたいときに読むことができるし、読むことが嫌になっても暫くしたら、暇だからまた読もうか、と思って。読まない時間が間が開いても、現役の頃より本を読んでいる。苦しい思いになっても、時間があることはありがたいなあ、と思う。記憶力は相変わらず乏しいが、そういう忘れて行くことも、無意識の中に堆積していくのだと知ったので、話を聞くことや、本のことも忘れても無駄じゃない、と期待することにしている。ライフハックという言葉が一時期聞かれたが、響きが好きだし、生活をより快適にできるのなら、まじの真理みたいなライフハッ

喫茶店

イメージ
 小説を書くほど、気力はなくて、 何を不足して感じられていないか。 自覚もできない。 喫茶店に入っていて、 目の前の席に 椅子が並んでいて、 花瓶に花が活けてある。 予約された席だ。 音楽が止まって、 時計の音が刻まれていて、 また音楽が始まる。 隣の席に女性が座るのだけれど。 守ってくれているのは、 ご苦労様です、と思っているのだけれど、 今は腹が立っていて、 自分のするべきことは。と思ったけれど。 今、するべき、べきなど、そういうことはないのだろう、と。 何だか分からないうちに、 終わっている。 生きている以上、こんな人生を生きているから、 普通の人生だと思っていたので、 みんなよく耐えているものだ、と思い。 私はそんな昔みたいに大して、激しい刺激を求めていない。 喫茶店にいると、 日が陰ると、 照明は弱く、暗いので、 そういうことが、繰り返されている。 日々の繰り返しが 喜びを灯して、 そういうことが繰り返されているのなら、 それは、とても幸せなことなのだと思う。

思うことを続けること。気持ちに支配されないこと。これからを生きていくこと。

イメージ
  今年の夏は、よく冷房を使っていて、 新しい車の中も、冷房がよく効いていて、 畳の上に寝転がって、暑い、 という夏とは違っている。 猫は夕方に現れる、と言っていた人。 いいな、猫の集会をしているのか。 ともだちになりたかったあのこは、 私の写真がいけなかったか、見かけない。 そんなに酷い人間がいる地域にも思えないが、気をつけたい。 あの日、海の景色を気持ちよく見ていたあのこ。 蜩の声は自宅で聴くことが少なくなっていて、 山に上がると、声がしていた。 夏は洗濯物がよく乾くのが好きで、 ため込んでも、洗ってしまえば、 すぐに一日で着ることができる。 お世話になった、おばさんに会って、 もう五年くらい前のことだろうか。 今度、富士山に登りに行く、と言っていた。 私もそういう具合のことが好きで、いいな、と思っていた。 一人旅が好きで、 道を間違ったり、 あたふたして、その結果、 けっこう楽しくなっていて、 気楽でいい。 詩を書くことは、 気を鎮めるために、 その時間が好きだ。 本当に、外にある あの時を見つけて、 その流れに入って、身を預けて、 さぐって、それを感じること。 出会うことは少ないけれど、 出会えて、とても、 幸せなのだと、 その気持ちを伝えればいい。 夏は極度の暑さを避ければ、 好きで。 なぜか、とても、 果敢なくて、懐かしいのだ。 一人の時間が多いから、 そう思うのだろうか。 そういうことなら、この時間にも 意味があって、いいこともあるだろうし、 そういう夏を生きていることで また少し私が堆積していくだろう。 子どもと関わるのは、 苦手というか、下手になったかも分からないが、 その当たり前のことを守りたいと、思っているのは、 私のその過去が恵まれているからだ。 もっと、こうやって、 書いて、気持ちを思いたいが、 現実に戻れなくなるのは好みではないので、 また、現実に戻って、 暮らしを楽しんで。 懐かしさと、これからと、をちゃんと生きていかないとな。

懐かしい感覚

イメージ
  籠の中にいるようだ。 その中で自由にいることは、 自分が思ったことをして、 少なくとも、 マクドナルドで深夜、 あそこに行ける筈なのに、という日々を過ぎて、 苦しんでいたころ、 いまだ、苦しむのはしんどい、 少々、私には苦しみは伴っている かもしれないが。 そんなことを考えて、アイスコーヒーを飲んでいる。 随分、楽になったものだ。 信仰ってわたしには分からないけれど、何ですか、 と聞かれると。 はっきり、何だろうと思って。 色々なことを経験して、その現場を経験するのも、 経験だと言うならば、良かったことだ。 今日、海岸で人と少し話をしたのだけど、 何てことはない、会話だった。 ぼんやりと、暫く忘れていたやり取りだった気がする。 この日々を、まだ生きるけれど。 頑固だ、と言われたのを憶えていて、 今なら、それも悪いことではない、と思っている。 妙にお腹が減って、力が抜けていた。精神的なところから来るのだろうか、と思って、しっかりしろ自分、と思った。夕方、海岸を車で走っていると、夕日の沈んだ後の、海の色合いが綺麗で嬉しくなった。元気出るぜ、と思った。前はセブンイレブンの高めのソフトアイスを食べると元気が出た。これから、元気出さんといかんこともあるから、元気頼むぞ、と思っている。日々を穏やかに自分が優しいとかでなくて、優しく過ごせれば、と思うな。

檸檬

イメージ
  レモンの味と香りを思い出している。 さわやかな、脳裏にひろがるような、 果汁のはずみ、酸味。 コップに入った水に ぽたぽたと落としてゆくと、 ひろがって果汁はひらいてゆく。 眼を瞑って想像している。 レモンの感触。 目を瞑ることで、想像する。 レモンの切り口。 輪切りにしてはちみつに漬けて、 果汁が手にぬかるむこと。

夏の朝

イメージ
  夏の朝、 海を見るために、車に乗る。 朝の光を染めた海は、 凪いでいて、 絹のきめ細やかさを 袖に通して、佇む、 若い青年のようにして、そこにいた。 車を進めると、風が吹いていて、 人生とはそういうもののように、 海は騒いで、経験していた。 もっと先に行くと、老人でもいるのかと 思ったが、 時間と期待を込めることにして、帰りの道を走っていた。

静音

イメージ
  夏の眠れない日、蜩の声は聴こえなくて、 ジワジワとシャイシャイと蝉の声がしている。 また、会おう、と、 上から目線で言いたくて、そんな日は、 自分の模様にはないようだ。 綺麗な詩が書きたいが、自分の思いが勝っていて、 あの水脈に、 流れに辿り着けないでいる。 静まるとき、鎮まるとき、 しずかな何かが、 名のない声を語っている。 それは私の味方であると、そう信じることにしている。

やったろやないかい。

イメージ
  子どもが子どもらしく いることに、 人を慕う、その姿に、 その優しさに、 希望がある筈で、 私は滑稽に苦しみを繰り返している。 それでも、 救う、という言葉は余程の人、余程のこと、に感じる。 しかし、生きることを認めて、 生きていることを知って、 人を愛して生きて、 物語を持っているから、 他人が馬鹿にできるようなものではない。 誠実に、優しさを持って、 どれほどの矛盾や苦しみを持つのかは分からないが、 強く涙を流して、 愛するのだ。人を自分の人生を。 私はその手助けをするつもりだ。 このへなちょこな、すぐに苦しむ脳をもって。 どこまで持つのか私の脳は。 オーバーロードした経験もあるぞ。 やってやろうじゃないか。 一番苦手な人間のことだ。 そんな人間が福祉の仕事をしていた。 やろうと決めた。 具体的に考えると、実感が湧かない。 お先真っ暗とか嫌だ。 だから、やるのだ。 明るくやるのだ。 形だけではなくて、具体的に明るく。

今日のこと。

イメージ
  友だちが詩を書いていた。 友達とは、いつも上手くいかず、 向こうから、自分からさよならをしていて、 何となく気付いていたのだけれど、自分にも問題があると。 でも、生き方を少しずつ変えて、 人が自然に笑ったとき、それを見たとき、 懐かしさを憶えていて、 これは忘れてはいけないことだと、 奥にいる自分が語っている。 友だちとは、喧嘩というか、 何ていえばいいのだろう。 分かり合えたのだろうか、 それとも違うのだが。 でも、自分は少し信頼をしていて、 友だちだと思っている。 詩を書く友人が いる。 自分にとって珍しいできごとが起きている。

実家のモロヘイヤを使ってカレーだ。男っぽいカレー。レシピでもイカツイ男性が作っていた。

イメージ
  好きに生きて、 好きに眠って、 好きな思い出を思い出して、 買い物をして、 料理をして、 車に乗って、 音楽を聴いて、 いつからか、忘れていること、 でも、こんな感じだった。 そう変わりはしない。 そんなに好きにだけ生きてもいないが、 忘れていることが幾つかある気がしている。 それも、多分忘れて行くことで、と思ったが、 いつか、思い出して、取り戻そうと思っている。 子どもを抱きしめていた人を見たように。 加齢臭が出始めたころに、子どもにびくっと、反応する時期があった。変なことにはおかげさまでないのだが、昔ラジオでだったか、加齢臭は自分の子どもとの近親相姦を避けるためにある、というのを聞いたことがある。こんなことを、公の場所で書く自分も自分だが。正直かなり自分のプライドは傷ついていた。こんなことになるとはな、と今も思っている。随分だ。マニアックな面で見ると、貴重な体験なのかもしれない。若い頃の自分だと、面白い体験だ、と笑って言うことを想像する。当事者の自分から言うと、死ぬほど悔しい。リアル死ぬほどだ。ふざけた気持ちで書いていない。随分だ。今は落ち着いてきているのか、ちゃちゃ、とは済ませてはいるが、普通の意味でも変な欲がない。そんなには、だが。 こんな人間が詩人として生きることができる。あの時は、感じ入ることができる時は、特別な時間だ。それほどは多くそれを経験しないが。今日は変なことを書いたものだ。ただ、綺麗な詩が書きたかったのだが、書けなかった。まともな人間として生きたい。心許せる友人がいて。まあ、こういう生活に慣れてしまってもいるが。そういうことには、そんなに期待していない。自分なりに生きてきた時間が長いのだよな。腹が減ってきて、変なことばかり書いたな。